期待と希望について

「嫌われる勇気」の岸見一郎氏のコラムより。

存在としての幸福に気づき、幸福を武器として闘う。夢や期待が実現しなくても、幸福であることには微塵も影響をおよぼさない、という言葉の意味をよく考えたい。夢や期待を実現させることが幸福だとばかり思っていたから。

三木清を引用しつつ。

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新型コロナウイルスのために、「期待」していたことができなくなったとしても本来の「希望」が失われたわけではないのです。

この本来の希望は、三木の言葉を使うと「存在としての幸福」です。人は何も達成しなくても幸福で「ある」という意味です。夢や希望(実は期待)が実現しなくても、幸福であることには微塵も影響をおよぼさないのです。

三木はまた次のようにもいっています。

「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福なひとである。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れても尚幸福である」(前掲書)

「外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽に」脱ぎ捨てられる幸福は、真の幸福ではありません。三木がいうように決して「気楽に」脱ぎ捨てることはできないでしょうが、この一年を振り返り何も残らなかったという人は、真の幸福ではないものを捨て去ることができたからです。

手を空にしなければ、あらゆる困難と闘う武器を持つことはできないのです。

哲学。

寺子屋のひとつのジャンルとして、

哲学

は、どうだろう。

政治も経済も文化も社会も、もっと日常的な人間関係の悩みとか恋愛とか

論じることを突き詰めると「哲学」に至る、、、気がする。

そして、ものを考えるときに自分の中にひとつのメジャーがあると

揺らがない理念があると、考えることが楽しくなる。わかりやすくなる。

ひょっとしたら、それが、自分の揺るがない軸を探し求めることが、「哲学」なのではないかと思った。

そうであれば、年齢に関係なく、人は死ぬまで哲学を必要とする。

経験値が少ない若者も、さまざまなことを学んできたシニアも、「哲学」というジャンルであればフラットな立場で言葉を交わせるのではないだろうか。

ふと思いましたことよ。

なんだかな

ちょっとした夢が

小さく崩れた。

でもプロジェクトは終わりじゃなくて。

現実を見ていなかった自分が悪い。

これからが本番。

どうやって夢を見るかなあ、

とか。

まずは自分の整理が先ですね。

ブログもちっとも進展していない。

しっかりしよう。

緊急事態宣言が延長の兆し。

視察へ行けるのはいつの日か。9月末か10月かな。

それまでにはもう少し寺小屋プロジェクトを育てておこう。

別の夢を見ながら。

 

リカレント教育

リカレント教育

シニアの人々に、新たな学びの場を。

シニアをリスペクトするコミュニティ。

世代を超えた交流

シニア自身の充実した知的生活

公民館やデイケアサービスではない、シニアたちの居場所。

最後まで、よりよく生きようとする人たちのコミュニティ。

社会の変え方。

可能性ということ

可能性という言葉に

なぜかピンときた、きのう。

「こうあらねばならぬ」という思いにとらわれていると、

可能性の空間がなくなる。

生きている限り、

呼吸をする以外は自由。

というアート作品があった。

それってすごいな、と思う。人間の行動を制限しているのは、自律機能以外、すべて人の心だ。笑うのも、泣くのも、怒るのも、悲しむのも、もっと心の底から自由でありたいと思う。

社会の中での自分の位置とか、役割とか、世間の期待とか、単純に向き合う人を悲しませたくないとか、喜ばせたいとか。そう考える前に、「自分はどうしたい、どう考えたい?」ということが出発点であってほしい。自分で自分を束縛している状態。

TERAKOYAのノートにこんなことを書くのは不似合いかもしれないけど、

たぶんTERAKOYAは、自由な空間 をテーマにするだろう。

どう使うのも、どう活かすのも、自由。

そこで何が生まれるのかも、何を考えるのかも自由。

型にとらわれない、可能性が無限に広がる空間にしたい。

そのためには、TERAKOYAを創る人たちがまず、自由な心を持っていたい。

せめて、自由にあこがれる人でありたい。

そう思っていると、「自由な」人たちにきっと出会えるから。

TERAKOYA 自由塾。