期待と希望について

「嫌われる勇気」の岸見一郎氏のコラムより。

存在としての幸福に気づき、幸福を武器として闘う。夢や期待が実現しなくても、幸福であることには微塵も影響をおよぼさない、という言葉の意味をよく考えたい。夢や期待を実現させることが幸福だとばかり思っていたから。

三木清を引用しつつ。

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新型コロナウイルスのために、「期待」していたことができなくなったとしても本来の「希望」が失われたわけではないのです。

この本来の希望は、三木の言葉を使うと「存在としての幸福」です。人は何も達成しなくても幸福で「ある」という意味です。夢や希望(実は期待)が実現しなくても、幸福であることには微塵も影響をおよぼさないのです。

三木はまた次のようにもいっています。

「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福なひとである。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れても尚幸福である」(前掲書)

「外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽に」脱ぎ捨てられる幸福は、真の幸福ではありません。三木がいうように決して「気楽に」脱ぎ捨てることはできないでしょうが、この一年を振り返り何も残らなかったという人は、真の幸福ではないものを捨て去ることができたからです。

手を空にしなければ、あらゆる困難と闘う武器を持つことはできないのです。